いつか見たあの広い世界





 「昔、テリーが戦った人たちって、今回も出ているのかい?」
 少年はそう言うと、テーブルでサンドイッチをほお張っている男を見上げた。
「う〜ん、アンディと舞は道場の方が忙しいとか言っていたな。ジョーもジムにかかりっきりだし……そこに出場者名簿、なかったか?」

 「そこ」はこの男の性格がうかがえるようにペーパーバックや新聞が山積みされており、肝心のものを探すのにはいくらかの時間を要した。この男にとってペーパーバックと出場者名簿は同じようなものらしい。
「まったく、見ないような物はさっさと捨てればいいんだよ。こういう大事なものと一緒にするか? 普通」
 案の定出て来た書類は多少しわがよっていた。それを伸ばしながら眺める。
「う〜ん、『キム』ってのがいるんだけど……」
「へぇ〜っ、さすがにまだあいつは現役なのか」
 が、少年は少々困った顔をして振り返った。
「どっちの『キム』なんだ?」
「は?」
 サンドイッチを口にくわえたまま目を丸くしているその男の顔は……たいそうマヌケであった。


 少年から手渡された名簿を見て、男はさも嬉しそうに言った。
「お〜、こいつらは息子たちじゃないか」
「息子、かぁ……。本人じゃないんだね」
 残念、と肩を落としている少年に男は続けて言った。
「あれ? 確かお前、前にこいつらに会ってるはずだぞ」
 今度は少年の目が丸くなる番であった。長いことこのセカンドサウスにおり、東洋系の人間に出会うことは少なかったから。
「10年くらい前か、そいつらの父親が二人を連れてサウスタウンに来たんだ。お前と年が近かったから……結構一緒にいただろう?」
 少年にとってこの兄のような義父に出会ってからのこの10年はかなり密度の濃いものであり、最初の方のその記憶を引き出すのにはしばらくの間を要した。


 よく似た親子だった。何から何までそっくりだった。特に子供の方は、少年にはどちらがどちらなのか見分けがつかなく、最初は往生したものだった。さらに驚いたのは、彼らが多少発音に難があるものの、滑らかに英語を話していたことだった。そのお陰で簡単にコミュニケーションがとれたわけだが。
 おたがい世界を舞台に戦う父の姿を見ながら自分たちの将来についてや、他愛もない世間話に花を咲かせていたものだった。
 彼らはどうしているのだろうか。遠くを見つめていた少年の気持ちを察したのか、最後のサンドイッチを飲み込むと、男はいきなり切り出した。
「それじゃあ、様子でも見に行くか」
「なに言ってるんだよいきなり」
「試合の話はまだ聞いてないさ。俺もあの子供たちがどうなってるか、少し気になったからな」


 何年か前に試合で来たっきりであったが、主の性格をそのまま表したような道場の空気はなんら変わってはいなかった。
「あっれ〜? どっちもいないみたいだな」
「10年も経っているんだよ。そんなすぐわかるわけないじゃ……」
「テリーボガードさんですよね?!」
 年若い青年の声に振り向くと、テリーは「ほらな」とでも言うように、にっこりロックに向かって笑ってみせた。記憶の中の少年たちの父親と良く似た青年がそこにいた。
 「お久しぶりです。……まだ試合は当たっていませんよね?」
「そうだけどな、ま、こいつの『お披露目』みたいなもんかな。……で、悪ぃ、兄か? 弟か?」
 東洋人の見分け方がいまいちうまくないのはこの男も同じのようだ。だが青年は気分を悪くした様子もなく、笑顔のまま答えた。
「弟のジェイフンですよ。本当にお久しぶりですね。お元気でしたか? えっと、ロック君、でしたよね?」
 「覚えていたのか?」少年は申し訳なさそうに言った。
「アメリカの子とあんなに仲が良かったことはありませんから」
  笑顔は変わらない。そういえば彼の父親もこのように優しい笑みを浮かべる人だったと、少年は思い出した。
「ジェイフンか。父親にそっくりだな。そっちはどうだ? 19ってことは、今大学か?」
「ええ、法律を」
 それを聞くとテリーは苦笑した。あの父親の血はかなり濃く受け継がれているようだ。
「兄貴の方は? お前がそれならさぞかし兄貴はすごいんだろうな」 そこで初めて青年の顔がしかめっ面になった。あきれたように首を振る。
「学生生活を最っ高にエンジョイしていますよ。今日も日曜だからと、朝っぱらから繁華街に飛び出て行きました。……ナンパでもしているんじゃないでしょうかね」
「な、ナンパ……」
 金髪の2人は絶句した。あの父親とこの弟、硬派を地で行くこの2人の間にいる兄がナンパとは想像も付かなかった。
「練習にもほとんど出ませんね……今回大会に出る、って言ったから少しは練習に出てくれるとは思ったんですが……ダメですね」
 青年は心配を通り越えて、呆れるしかないようだった。
「兄貴は素質はある人だと思っているんですが、修行が好きではないみたいで。……自分のことを『天才』とも言っていましたね」
 青年の憂鬱が移ってきそうだった。
「テコンドーはやって、いるんだよ、なぁ?」
「やってますけどね……どうも技ばっかりで……てっ!」
 スパーン、と音を立てて、プラスチックのトレーが青年の後頭部を直撃した。
「何影で人の悪口たたいてるんだよ。親父が見たら泣くぞ」
「むしろ『もっと言ってやれ』って言葉が返ってくるかもね」
 トレーに乗っていたであろう物をほお張りながら仏頂面をしているのが、その問題の兄であるようだった。前髪を染め、立てて、見るからに明るそうなその外見は弟のものとは対照的だった。
「いや〜、見事な反抗ぶりだな、オイ」
「お見苦しいところを済みません。これが愚兄です」
「テリーさん、ロック、こいつの言うことばっか信用しちゃいけませんよ。こいつ、嫌みなところばっか親父に似てますから」
 それを聞くと、テリーはまた苦笑いをした。確かに彼のほうがより若者らしかった。そういえば弟の方はどうも彼自体ではなく、彼の父親を見ているような気がしてならない。
「それよりよくわかったな、俺とロックだった、って」
「テリーさんはわからないわけないですし、テリーさんと一緒にいる少年ならロックでしょう?」
 ひょうひょうとしているようで、この青年、なかなかキレるようだった。
「今回の大会はロックも出るんですよね。当たるのが楽しみだなぁ」
 「あれ、そういえば、父親の方はどうしたんだ? まさかもう引退ってわけじゃあないだろう」

 兄弟の顔が引きつった。弟は青ざめながら目を四方八方に動かし、兄のほうはあわてて口の前に人差し指を立てながらテリーたちに言い寄ってきた。
「それ、ここでは禁句、禁句!」
「父はそれ、かなり気にしているんですよ!」
「なんだよそれ。……そういえば、その父親の姿も見えないけど」
 兄弟は再びあたりを見回すと、その影が見えないことを確かめてから話し出す。
「父は数年前から韓国のテコンドーの協会のこの辺の支部長になりまして、忙しくなったので」

「格闘大会にゃ出られない、ってわけか」
 確かにあの男の技量、性格を考えるとそれは適任だろう。むしろ今までそうでなかったことがおかしいぐらいだったのだから。自分の弟、親友と重ね合わし、テリーは心の中で深いため息をついた。歳月は時として残酷になる。
 「『もっと内側からテコンドーを広めることができる』って口癖のように言ってますけど……どう見ても落ち込んでますね」
「だからか、道場の方にも結構出てますよ。そのうち倒れるんじゃないでしょうかね。過労で」
 彼は冗談のつもりで言っているのだろうが、
……非常にありえるだろう。そのような状況ならば。いまだそうなっていないようなのは、あの男もまた「伝説」の一人であるがゆえか。
「みんなもう忙しいんだな……」

「えっ、以前の方々は今回出ていないんですか?」


 今まで出ていたどれでもない声が響いた。兄弟はギョッとして振り向く。声の主は先程まで話題に上がっていた彼らの父親だったのだ。さっきの話は聞かれていないかの顔であったが、その恐れはないようで、彼はテリーの発言への驚きの表情のままである。
 外見には10年という年月がこの男にもいくらか影響していているのが見て取れたが、その分テリーには懐かしい思いもよぎった。 が、不意に吹き出してしまう。
「あんた、スーツ似合ってないな」
 一同から笑いが起こる。男は少し顔をしかめてつぶやいた。
「悪かったな。少しは気にしているんだが」
 彼が気にしていることは「スーツが似合っていない」ことよりも「スーツを着なければならない」ことであるらしかった。きまりが悪そうに上着の裾を引っ張っている。
「それで、なぜテリー君たちがここに?」
「別に対戦も組まれていなかったから、息子くんたちがどうなっているか興味があったもんでな」
「興味と言ってくれているぞ、ドンファン。お前、今日の練習はもう済んでいるか?」
 しかめっ面をする兄。朝から出掛けていたのでは済んではいないのだろう。追い打ちをかけるように「朝から家にいたのなら出来ているだろうな」と言われ、窮地に追い込まれている。
「対戦は組まれていない、と言いましたよね。ちょっと待っていてもらえますか?」
 言外に含まれる意味を悟ったテリーが嬉しそうに笑った。それを見た男も嬉しさを隠しきれずにめいいっぱいの笑顔になる。
 クスクス笑う弟をにらむ兄を引っ張って、父親は道場の中に消えて行った。

 出て来た男は見慣れた胴着を身にまとっていた。彼自身もそちらの方が合っているようで、先程よりも生き生きとしている。そう、まるで10年前の姿のように。
「お待たせしました。すみません、わがままにつきあわせて」
「実は俺も今日はそれが楽しみだったんだ。久しぶりだ、手加減なしでいこうぜ」
 どこから話を聞いて来たのか、既に道場内には門下生が集まっている。ただでさえ最近見られない師範の戦いであり、しかもその相手があのテリー・ボガードだとくれば、見ないわけにはいかないのだろう。
 ロックとジェイフンは最前列に陣取って試合が始まるのを待っていた。この対戦を見るのが久しぶりなのは彼らも同じであった。
 しばらくして、後方が騒がしくなったかと思うと、ドンファンが人を無理やり分け入ってこちらにやってきた。
「兄貴、練習は?」
「マッハで済ませた」
「柔軟は?」
「パス」
「それじゃあ練習にならないよ」
「こんなおもしろい物、ほうっておけるかぁ!」
 彼もこれが楽しいらしい。ジェイフンの横にドッカと座り込んだ。もしかすると、当人たちよりこの状況を楽しんでいるかもしれない。準備運動をしていた父親は、それに気づいて諌めるように一睨みしたが、すぐ戻る。

 キムカッファンは、韓国テコンドー界では有名すぎるほどの人物であり、その技量もかなりのものである。しかし、世界を前にしてはその彼の力も「一格闘人」でしかない。多彩で鋭いテコンドーの技、それは自由で重いテリーボガードの技によって難なく流されている。
 「さすが、テリーさんは強いね……兄貴?」
 兄はいつになく真剣に、試合を見ていた。が、その目はキラキラと輝いている。―――そう、同じくこうして父親達の試合を眺めていたあの頃のように。
「…………兄さん……」
 ジェイフンはそれっきり声をかけるのをやめた。

 小一時間も打ち合っていただろうか、不意にキムカッファンが構えを解き、両腕を軽く上げて首をすくめた。
「すまない、もう私は限界のようだ」
 それを聞くと、テリーボガードは少し残念そうな顔をしたが、同じように構えを解き地面に座り込んでしまった。
「ははは、実は俺ももうヤバかったんだ」
 二人が大きく息をつく。周りの空気がようやく緩んだ。
 「やだね、年を取るのは。体力も筋力も落ちてる気がするな」
「何を言っているんだ、私は腕がかなりしびれているぞ」
 キムカッファンは両腕を振りながら言った。
「だが……年を取れば、その分間合いの取り方や駆け引きに長けるようになる。私はそれでいいと思うんだけどね」
 そして新しい者たちがまた現れるから、と言ってキムカッファンは目を丸くして眺めていた青年達に目を向けた。

 「やっぱりテリーさんも、父さんもすごいね……」
「二人とも『伝説』と言われている人だからな」
「何言ってるんだ、これから俺たちも親父たちと同じ舞台に立つようになるんだぜ」
 年少組が驚嘆の表情を見せる中、兄はいたって明るかった。
「たしかにそうだけど……僕たちは父さんみたいにはなれないよ」
「なる必要はないさ。俺たちは親父じゃないんだから。俺たちは俺たちなりのことをすればいいんだよ。親父を通してじゃあ何も見えてこないさ」
 それを聞いたロックの顔が明るくなった。彼はここで初めて笑顔を見せたのだった。弟は、兄の言葉を少しばかり反すうしていた。
 いつか遠くに見ていた広い世界は、今自分の目の前に。そして自分が新しく作っていく。少しだけ、楽になった。そしてお調子者の兄の考えも、少し。


「いつか、手合わせする時が楽しみだなぁ」






私はドンファンは阿呆とは思ってません。
少なくとも彼なりの考えがあってああしているのだと思ってます。
カップリングにまだ未練のあった頃の物なのでその片鱗が出てしまっていますね。



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